倉石武四郎博士について
倉石武四郎博士略歴
『倉石武四郎講義 本邦における支那学の発達』「はじめに」から「『東洋學の系譜』[第2集](江上波夫編、一九九四・九、大修館書店)所収「倉石武四郎」(戸川芳郎)より転載。」とある部分を転録する。
下記倉石武四郎博士の略歴は、頼惟勤によるもの(頼惟勤『中国の名著』勁草書房)に従って、戸川氏が補足するという構成が採られている。戸川氏補足の際には、頼惟勤の使用する倉石先生に係る敬語はすべて、普通の言葉に改められた。しかし下記当サイトによる転録時は、頼惟勤の文章の部分は、原文に従った。
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ここをクリックすると頼惟勤の倉石略歴に戸川氏が補足した文章を付けたり外したりできる。
なお、下記文章中★は、頼著倉石紹介文中の戸川補足である。
------倉石武四郎博士は新潟県高田市(〔★現、上越市〕)において明治三十年〔一八九七〕九月二十一日に誕生された。倉石氏は高田の名家で和漢の学に精しい人物を出し、たとえば侗窩先生(諱、典太)は安積艮齋(あさかごんさい)に学び高田藩校の教授を勤められた。父君昌吉氏は慶応義塾で福沢諭吉氏の教を受け、のち郷里で商業を営み、昭和五年になくなられ、母君みか刀自は国文学を嗜み和歌を作られたが、昭和三十年になくなられた。兄弟すべて十三人(四人は早逝)の中、第七子で四男にあたられる。
長兄太郎は、東芝タンガロイ会長、すぐ上の兄文三郎は、高田市助役。弟五郎は、ながく成蹊大学のドイツ語を担当し音楽指揮者を兼ねた。妹カウは同郷の同学、お酒の学者坂口謹一郎の夫人。次弟六郎〔元福岡気象台長〕夫人は、同郷の先学関野貞(ただし)の息女である。末弟治七郎は、日本生命重役。
八歳のとき高田第二尋常小学校に入り、十四歳で(★県立)高田中学校に進み、大正四年卒業、同年第一高等学校一部乙類に入学された。中学のころから和漢の古典を好み、一高在学中から中国文学に志し、大正七年東京帝国大学文学部に入学、支那文学を専攻、卒業論文は「恒星管窺」。大正十年〔★一九二一〕卒業と同時に芝罘(★チイフウ)・上海(★シャンハイ)・蘇州・南京・鎮江・揚州・杭州・紹興・寧波(★ニンプオ)等に一ヶ月旅行し、また特選給費生として文学部副手を兼ね、大正十一年、進んで京都帝国大学大学院に転じ、主として狩野(★かの)直喜博士の指導を受けられた。また新城(★しんじょう)新蔵博士の指導で中国古典の天文史料を集められた。
一高では、ドイツ語の朗読を岩元禎にほめられ、ことばのリズムに関心をいだいたが、三木清や瀧川政次郎らと漢籍の会読にはげんでいる。東大に進み鹽谷温(しおのやおん)教授に就いたが、卒業論文では天体分野説や古占星術をあつかって、周囲を驚かせた〔用語は、漢文〕。すでに欧米言語の音読から推して訓読による中国古典文の読解のしかたに疑問をもちつづけた倉石は、時の主任服部宇之吉教授にそれを質して不満を残したまま、〝文学革命〟を紹介した青木正兒(まさる)らの「支那学」誌の新取に刺戟され、上京時の狩野を訪ねて京大ゆきを請うたという。
そもそも漢学・支那学と中国学、東洋史と東洋学・東方学、この二系列の学問は、近代日本アカデミズムの特産である。国際化のただ中で、いや応なく対応の迫られる現今の日本学になぞらえられる。
明治開花後のわが国が、欧米列強の文明基準にまなんで拡張進出の政戦両略路線をとるその国策に応じて、大陸をつつむ東アジアをあくまで批判的対象として相対化する研究方向を採った後者にたいして、前者は立憲も、これまた欧米文明に対処しうる日本化道義(イデオロギー)すなわち東洋倫理の構築に奉仕すべく、教育界をその影響下においた。日清・日露両戦役をへて明瞭な学術傾向を基底にそなえた点で、この両系統ともども共通してナショナルな利害に立つ特徴をもつ。
後者は東西両大学の東洋史学の動向に代表され、前者は、数奇な転変をかさねた東大の漢学系と高等師範の漢文教科との連繋にみられる教学部門での活動に、それぞれその徳初kを発揮した。
その間にあって、支那かぶれと称されたsinologist狩野直喜らを中心に、支那学が京大文科に形成されつつあった。停滞中国を近代化の缺如態として軽蔑するのではなく、それ自体のもつ意味を評価しようと企てたその中国理解の方法に、倉石はふかく共鳴したのである。
後年、東大に転任を要請された倉石は、狩野の没年までは京都を離れることがなかった。
夫人豊子の父は、高田の岩の原ブドウ園主でその晩年『武田範之伝―興亜前提史』を表した川上善兵衛〔1870―1944〕である。豊子夫人の叔母にあたる近衛尊覺尼は、奈良・中宮寺の門跡。大正十三年大谷大学文学部に助教授として出講(支那文学等を講述)、また京都帝国大学附設第七臨時教員養成所の講師となり、この間、豊子婦人と結婚された(四男次女を儲けられる)。大正十四年(★大正十五年)、京都帝国大学専任講師、翌年(★翌昭和二年四月)助教授に任ぜられ、大正十五年から「支那学」の編輯、のち「狩野教授還暦記念支那学論叢」(弘文堂書房、昭三刊)の編纂に当られた。
北京留学中の右の伝録は、その後半を記す倉石「述學齋日記」〔昭五、元旦~八月六日〕によって裏づけられ、交際した五十余名の学人の名が蘇る。なかに、当時すでに斯学のうちで倉石がいかに嘱望されていたか、を知る資料が見つかる〔「日記」はすべて漢文〕。昭和三年三月、文学部在学研究員として北京に駐在、はじめ東城の延英社に寓し、吉川幸次郎同宿、のち西城の孫人和氏宅に移り、北京大学・師範大学・中国大学に聴講(呉承仕・銭玄同・孫人和・馬裕藻・朱希祖ら諸氏の講義あり)、また雪講舎(★雪橋講舎)(楊鐘羲氏)において掌故を修め、北京滞在中の胡適・周樹人(魯迅)らの諸氏に会見、また山西(太原・平陽(★臨汾)・洪洞・曲沃・翼・太平・聞喜など)に遊び、また別に、東方文化学院京都研究所のために書籍(天津の陶湘氏の蔵書)購入に盡瘁(これによって同所所蔵の漢籍中叢書の部の基幹が形成された。のち狩野所長の下において、同所漢籍目録・分類目録が編纂されたが、このことにも参与された)、その後、昭和五年六月に至り、北京を離れて上海(章炳麟を訪問)に遊び、かねて無鍚・常州・南京(黄侃氏を訪問、八千巻楼の書籍を閲覧)を巡られたが、病のため旅行を中止し、八月帰国された。
最晩年、病床の枕頭にあったのが、京大の初期の講義ノートであった。帰国後京都帝国大学において清朝許学・清朝音学などを講ぜられるほか、魯迅(吶喊など)を講読、また中国語教育を推進、多くの教科書を著された。昭和十四年に至り、学位請求論文「段懋堂の音學」によって文学博士の学位を受け、同年、京都帝国大学教授に任じ、東京帝国大学講師として出講、翌十五年からは東京帝国大学教授を兼ねられた。
- ○清朝音學 上篇 昭七 自筆墨書
- ○清朝音學 下編 昭八 自筆墨書
- ○清朝音學 坿小學階梯 昭九~一○ 自筆墨書
清朝音學資料(油印) 錢大昕「與段若膺書」「音韻答問」、戴震「轉語二十章序」、段玉裁「答丁小山書」「江氏音學序」「答江晉三論韵」
- ○小學歴史 昭一一 自筆墨書
- ○清朝音學 完 昭一二 自筆墨書
- ○小學通論 昭一三~一五 自筆墨書
東大兼任は、退官した鹽谷温教授の後任に擬せられ、倉石の後輩で漢籍書誌学に長じた長澤規矩也〔一九〇二~八一〕の周旋によるといわれる。
京大で培った教育と研究方法は、学風を異にした東大においても貫いた。経学・詩文を問わず、旧来の訓読法を、留学を機に、〝玄界灘に捨ててきた〟ときびしく排除して、音読法の授業を徹底して支那語教育の革新化を図り、かつて鹽谷がその一部を分担した「国訳漢文大成」は訓読を本位とするため、倉石の兼任後、東大研究室の蔵書中から別置された。代って、支那学の概説が講述された。
- ○支那學の發達 昭一八 自筆墨書
- ○支那文藝學 昭一九 自筆墨書
- ○本邦における支那学の發達 昭二一 自筆墨書
これにより先、昭和六年より東方文化学院京都研究所の研究員を兼ね、(★研究「禮疏校譌(こうか)」のもとに)儀礼疏の校定に従い(★上の挿入に従って、以下のように修正。従い→行い)、昭和十二年に至り、「儀礼疏正譌」(★戸川本では「儀禮疏攷正」)を完成、研究所に報告された。また同所経学文学研究室主任としては、尚書正義校定の事業を始め、のちに主任を退かれたが、そのための会読には常に参加された。
さて東西の両大学兼任のころ、国語審議委員会などを委嘱されて、昭和十八年・十九年・二十年には有栖川宮奨学資金を受け(高田久彦氏と共同)、「現代呉語の研究」を行われた。また戦後は東京大学理工学研究所の小幡重一博士と共に、同所の施設によって中国諸方言の実験的研究を開始、一方では近畿一帯の古寺院に伝わる仏典読誦方法から唐代古声調を研究された。また中国語学研究会を結成されたのは昭和二十一年である(結成以来終始会長に在任)。
昭和二十四年東京大学教授専任として東京に移り、また日本学術会議の第一期会員に当選、日本中国学会結成に事に参与、二十五年からは中国語講習会を主宰(二十五年は日中友好協会の名により、翌年より博士個人の講習会となる)、初めてラテン化新文字を教育に応用、二十八年からはNHK第二放送の中国語入門講座を担当(三十一年に及ぶ)、二十九年秋、中国学術文化視察団の一員として新中国(北京・西安・上海・杭州・広東)を見学された。この間、東京大学文学部に「中国の文化と社会に関する諸問題」の講義を開き(二十五年以降)、また「中国変革期における社会・経済・文化の相関関係の研究」委員会(二十六年以降。文部省科学研究費による)を主宰、かたわらその言語文字問題の研究を担当、また北方語研究会を結んで人民文芸叢書の方言を摘出・研究、また別に「ラテン化新文字による中国語辞典」を編纂・出版された(近く完了)(★七冊分、昭和三十三年完刊)。
(頼著倉石紹介の末尾部分:昭和三十三年三月東京大学教授を定年退官されたが、引きつづき中国語学校の建設、新しい規模による中国語辞典の編纂について活動をはじめられている。)
昭和三十三年(一九五八)三月、東京大学を定年退官し、その名誉教授となった(のち、京都大学名誉教授をも追称)。一方、昭和三十年六月より『中国語』誌を発刊し(現在に及ぶ)、中国語の普及につとめ、引きつづき新たに制定された漢語拼音方案による中国語辞典の編纂に全力を傾注し、昭和三十八年(一九六三)九月、『岩波中國語辭典』を公刊するに至った。この間、昭和三十五年春、中国の文字改革視察のため、日本学術代表団として中国を訪問した。
昭和三十九年(一九六四)十月、小石川の善隣学生会館に中国語専修学校「日中学院」を設立し、終身その学院長として、教育と経営に力を尽くした。みずから中国語初級・中級を担当し、その教科書「中国語のくみたて」などを編み、かたわら学院の講師のために語学概説を説き、ながく段玉裁「説文解字注」を講じた。また、学校経営に伴う種種の困難に際し、身をもって事に当たり、倉石中国語講習会が昭和四十二年の善隣学生会館事件のあと、同年九月解散のやむなきに至ったが、「日中学院別科」としてその学習の場を存続させ、各方面の支持を得た。
昭和四十九年、「中国語の研究と教育および辞典の編纂」により朝日文化賞を受賞したが、その前後より痛風と脳梗塞をわずらい、同年九月東京都養育院附属病院に入院、翌五十年(一九七五)十一月十四日、屡次の脳血栓のすえ逝去した。享年、七十九歳。豊子夫人は、昭和五十三年(一九七八)六月五日、博士と同じ病院でなくなった。七十五歳。夫妻とも、上越市高田の本誓寺内、圓福寺に葬られる。 【中略:倉石ノートの所蔵場所について】
以上、著者(倉石)の伝歴は、氏みずから『中國語五十年』(岩波新書、一九七三・一)に詳述したのに、ほぼ尽くされている。そして、著書の高足、松本昭氏が、倉石氏の伝賛をつぎのようにまとめた。
博士は、中国の古典に深い造詣をもち、ことに清朝小学〔清代に発達した古代中国語研究〕について、西欧近代言語学の方法を加えて検討する新しい研究法を開拓した。その一方、現代中国語において、諸方言に至るまで綿密な調査と研究を進め、その基礎の上に中国語教育に独自の方法を樹立しようと目ざした。
日本においては、漢字とその訓読の定着によって、中国の生きた言語そのものが学ばれることはごく少数の例外をのぞいて、絶えてなかった。したがって日本人が中国語を学習するには、とにかく一度漢字〔つまり日本語〕から絶縁して、中国語そのものを学習させなければならない。それは、現代語・古典語を通じて同じであるべきだとの信念にもとづくものである。またこの観点から各種の語学辞典や教科書の編纂が企てられ、さらには中国語専修の学校を創設して中国語教育の普及と工場をはかったのである。
…博士の一生は、結局この〝中国にかける橋〟である中国のことばの研究と教育が真に日本に根づくために捧げられた、といってよいであろう。(『顯彰録 対中ソ外交物故功労者記念碑』一九八六・一一)
『岩波中国語辞典』『岩波日中辞典』がその著作を代表し、そして、東京・小石川の日中友好会館に隣る(となる)日中学院が、倉石氏の創設し終身経営した中国語専修の学校である。